田原小学校

田原小学校

静内桜風園

千代田牧場から道道71号線に抜ける道を下って行くと、日胆クリーニングの建物があった。更に少し下ると静内桜風園の門が見えてきた。時計を見るとちょうど12時を指していた。エントランス広場に着いたのが11時だから、1時間経ったわけだ。この風景はネットで何度も見ていたので、特別な感慨はないが、やっとここまで辿り着いた。

田原小学校記念碑

桜風園の門をくぐって行くと、右側に碑らしきものが目に留まったので、行って見ると、「田原小学校記念碑」と書いてあった。その下は「田原小学校跡地の碑」となっていて、読んでみると、ペテガリ?、シベチャリ?、アイヌ語の地名とまでは分かったが、どこにあるの?

田原小学校記念碑田原小学校跡地の碑
昭和二十六年四月一日開校
昭和六十一年三月三十一日閉校
ぺテガリの氣高き姿
シベチャリの豊かな流れ
清らかな心を汲みて
六二五名の輩この地に学ぶ
田原小学校の輝ける栄光を後世に伝え
学舎の跡地の碑をここに建立す
平成元年三月
静内町教育委員会

ペテガリとシベチャリはネットで検索して、その意味が分かった。また、この碑文に書いてある625名と言うのが在籍延べ数とすると、1学年あたりの人数は625/35=18人となる。当時の入学式の写真を思い浮かべてみると、8名×3列=24名かな~。今、手元にこの写真がないので、あくまで想像上のこと。確か私は最前列で私だけが学生服を着ていなかった。田原小学校には3年の4月19日までいたらしい。
「らしい」とは私自身にその記憶がないからだ。当時、1年生の妹がこの19日を覚えていたのである。入学してまもなく他の小学校(歌笛小学校)に移ると言うので、記憶に残ったのだろう。その後、何度もその日を思い出していたから、高齢者になっても忘れられないのである。

グランドの桜

旧田原小学校グランドの桜左方向を見やるとグランドがあって、その先に桜がまだ咲いていたので、行って見ることにした。グランドにはバックネットがまだ残っていた。ここで、ソフトボールをした記憶はない。
ここでの思い出はブランコ。いかに遠くまで飛べるか皆で競った。流石にそのブランコは無かった。木陰に座れる場所があったので、しばしここで休憩。
昔もあの桜があったかどうかは記憶にない。他はほとんどが葉桜になっていると言うのに、ここは未だ見ごろを保っていた。

変形した鉄棒

3か月後、平取町振内に行く途中、またこの地に立った。今度は妹も一緒である。これは前回、撮り損ねたバックネットと鉄棒である。鉄棒はこの他にも背の低いのが幾つかあった。鉄棒の損傷具合からすると、これは古い。もしかして、私自身もこの鉄棒で遊んだのかも知れない。(2015/8/8撮影)

かつての通学路

田原小学校への通学は徒歩・バス・牛乳トラックの三パターン。バスに乗った時、ギアをセカンドにしたまま、砂利道を飛ばす運転手がいた。乗っていて、それが楽しくてバスの時は運転席横のバーの所に立つことが多かった。
たはらはし下校の時はバス通りに出ないで、川沿いに歩いた。その先はバス通りの水門に出る。学校を出てから自宅まで歩いて40分、と記憶しているのだが、今回はその検証も行って見たいと思っていた。
桜風園からバス通りの方に歩いて行くと「たはらはし」があった。橋の下を見ると水がない。更に歩くと今度は「とうふつばし」があった。
ここには水がある。昔は「たはらはし」辺りに、ちんけな木造の橋があって、そこから左に曲がったのだろう。そして川沿いの道を行き、「水門」に出たのではないか。もし、可能ならばその道を歩いてみたかったが、どう見ても無理のようなので諦めた。
Google航空写真で見ると白線のような感じになる。 田原小学校通学路

バス停

桜風園から車が見える方向へ歩いて行くと、「桜風園」と書かれたバス停があった。昔は「田原小学校」だったわけだ。さあ、ここを歩くか。こんな所を歩いているのは私ただ一人。時々、立ち止まって馬を撮っていたので、車の中からこの光景を見た人は「馬好きの人が写真を撮りに来たのかしら?でも変だわね。何でここなの?」と言う会話が聞こえて来そうだった。桜風園バス停から御園方面を見ると
右方向のカーブを曲がると、ずっと先に上り坂が見えた。その坂を登ればむかし住んでいた辺りに出るはず。そこまで行けば何かしらの店があるに違いない。そこで、何か買って休もう。真空断熱ケータイマグの中身も残り少ない。道の両側には牧場が多い。昔は多分、畑でしょう。馬が近くに見える所で立ち止まって、またカメラを構えた。
牧場の馬親子 ようやく次のバス停に着いた。見ると「水門」とあった。なるほど、静内川から引いた灌漑用水が田原小学校の方に行き、その脇道を歩いたと言うわけだ。そう言えばここら辺で発破を掛けて鮭を殺した奴がいるとかで、大人達が怒っていた。


静内川田原の水門
「水門」の次は「桜丘小学校」、昔は「御園中学校」と言ったんだろうね。覚えていない。さて、当時のバス運賃は?確か子供は5円だったはず。ここまでで36分だ。寄り道をしながら歩いて、この程度だと当時は30分も歩くと着いたのかも知れない。
桜風園・水門・桜丘小学校の道南バス停留所

1979年の田原小学校

この写真は1979年に会社の友人と彼のコロナで北海道旅行をしたとき、田原小学校の門の前で写したものである。
この田原小学校は7年後(1986年)に廃校になっている。そして、同年4月に、御園小学校と統合して桜丘小学校となった。
この校舎で学んだのは1年生と2年生の2年間。もう60年も前の話である。当時は複式学級と言って、1年生と2年生が同じ教室で学んだ。先生の名前は石川先生。細身の女の先生だった。
この田原小学校には2年までいたのであるが、1年の3学期はほぼ全休。肺門のリンパ腺が腫れてX線に出てしまった。まぁ、初期の肺結核と言うわけ。そんな訳で自宅療養を余儀なくされた。その時は1学期の休みで済んだが、高校3年生になって、また顔を出した為、半年入院する羽目に。
そうそう、その時の見舞い品で、今もなお忘れられないのが、雪印コンデンスミルクの美味かったこと。あまりの美味しさに一缶そのまま、平らげたことも。

国土地理院の航空写真

国土地理院に「地図・空中写真閲覧サービス」と言うのがある。丁度、1978年のがあったので、ダウンロードした。奇しくも、この1年後に私が田原小学校を写していたのである。画面左上が田原小学校、右上が水門。(なお、画像はオリジナルをトリミングと明るさ補整しています。) 1978年の田原地区航空写真

田原小学校沿革

本校の始まりは季節分教場であった。高静小学校の通学区域に属していたが、部落民多年の要望によって昭和三年季節分教場を設置した。この分教場は毎年十二月一日から翌年三月三十一日まで開設し一教室を部落会館に設け、一、二、三年の下級児童を収容、高静小学校から教員が交代で、出張授業に当たった。この季節分教場は、昭和十四年三月三十一日まで続けられた。

そして、同年四月から通年制の分教場となり、正式に職員の配置が決った。同二十五年十月一日、独立して田原小学校となった。このときはすでに二学級編成となり、教員も定員三名の配置となり、児童数も六十三名に達した。本校の発展は、戦後旧御料牧場及び国有未開地などの開放で、引揚者などの入植があり、それに伴う人の増加により、通学区域もしだいに拡大していった。このため本校は昭和二十五年、次のとおり新築について決議された。

田原小学校新築について
昭和二十五年度に於いて次のように田原尋常小学校を新築する。
校名:田原小学校、場所:字田原、種別:普通教室 三室、職員室 一室、便所 廊下、木造平屋 基礎布コンクリート

同二十六年八月三十一日、新規落成した。旧校舎の田原会館は部落に返還し九月一日新校舎の落成式を挙げた。この時児童八十三人に達した。二十九年さらに一学級を増築、同三十二年には四学級になり、児童数百七十九人となった。
なお本校の移転に伴い、新冠町の村田地区の一部から委託児童が通学している。
※昭和五十年七月三十一日静内町発行の「静内史」より抜粋

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